思い入れ西部劇 第217話「荒野の七人(1960)におけるスティーブ・マックイーン」

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マックイーンのパフォーマンス
 葬儀馬車でマックイーンがショットシェルを振ったり帽子を脱いだことに激怒したブリンナー
 は、二度と余計なことはするなと注意。
 ジョン・スタージェス監督は観て見ぬふり、むしろ競争心をあおる。
 イーストウッド、ショーン・コネリー、ジーン・ハックマンと同級生
 しかしマックイーンの演技には銃器ファンのこだわりの理由があり、帽子を脱いで風の状況を
 調べショットガンの散弾の広がりを確認する演技であった。
 しかし、同じく銃器に詳しいブリンナーも百も承知の事実だった

マックイーンのひがみ
 ロバート・ボーンによると、マックイーンはブリンナーのSAAのグリップが一人だけ高級グリ
 ップであることに不満を持っていた。
 黒に統一された衣装に合わせカービングが見事な黒のガンベルト、そして漆黒のグリップ(黒
 檀か?)
 但し、マックイーンは、アンディ・アンダーソンのガンベルト
 馬もブリンナーの馬が一番いい馬だと不満に思っていた。
 ちなみにこの馬は・・・
 ジェームズ・スチュアートが1954年アンソニー・マン監督の遠い国以来、引退するまで全西部
 劇22年間で愛用し続けた馬、パイだった。

マックイーンのライバル意識
 二人の緊張関係は他の出演者全員が気づいていた、そしてその原因がスティーブだということ
 も。イーライ・ウォラックもロバート・ボーンもジェームズ・コバーンも
 イーライ・ウォラックは20年後マックイーンの遺作ハンターで共演(MA-1)

ユル・ブリンナーとの和解
 スティーブ・マックイーン起用をジョン・スタージェス監督に進めたのは、実はユル・ブリン
 ナーだったが、撮影現場で人間関係が悪くなり後悔した。
 しかし1980年、マックイーンが癌によって死の床についた時、ブリンナーに電話をかけ『あな
 たは私を荒野の七人のメンバーから追い出すことが出来たのに、怒りを抑えて残してくれ
 た・・・そのおかげで以後私は映画人として成長することが出来、今の自分がある』と伝える
 と、ブリンナーは『I am KING and you are the REBEL PRINCE 』 あの映画では私が王とするな
 らば、君は反逆の王子だったよ と答えた

スタージェスとマックイーンの出会い
 1959年の戦雲Never So Fewでサミー・デイヴィス・ジュニア(サントリーホワイトCM1973)
 を予定されていた配役をサミーがラジオ番組のインタビューでこの作品の主演フランク・シナ
 トラより自分の方が、ダンスが上手いと広言したため、激怒したシナトラにより映画を降ろさ
 れ、マックイーンにお鉢がまわる。(四式戦 疾風の実機が登場 京都の嵐山美術館 知覧特
 攻平和会館)
 4年後1962年にスタージェス監督作品 荒野の3軍曹でシナトラとサミーは共演
 (サミーががぶった帽子はジョン・ウェインの私物でリオ・ブラボーの帽子)

テレビを休んで映画に専念するため マックイーンは事故を装った
 マックイーンの先妻ニール・マックイーン・トフルの証言
 クランクインは1960年3月1日

イーライ・ウォラック
 スティーブの銃さばきは最高だった ブリンナーも銃を抜いて回し手元を観ずにしまう
 私はムリ 観ないとしまえなかった
 スティーブは乗馬の腕も抜群だった
 確かシカゴの出身だったと思うが・・・どこで覚えたんだろう?

クリストファー・フレイリング(西部劇研究家)
 彼の存在感は圧倒的だ
 特に欧州では彼の出世作『拳銃無宿』は未放送で無名の俳優の印象は余計に強烈だった
 同じヒーローでもジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドとは違う
 善良な悪童のイメージだ (バッド・グッドボーイ)
 チャールズとスティーブはお互い無口だがウマが合った

劇中の蒸気機関車はアメリカン・ロコモティブ社製の5210号機
 メキシコのインターオーシャン鉄道G023クラス2-8-0 67号車として1967年まで現役で運行さ
 れていた。現在はメキシコシティ国分のラ・ビジャ駅跡にあるフェロカリロス博物館にて保存
 されている。

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